おおすか やすたか

1527-1589 享年63歳。

■通称:五郎左衛門尉

大須賀正綱の子として生まれる。

はじめ娘婿の榊原康政と共に酒井忠尚に仕えていたが、忠尚が徳川家康に反旗を翻すと、康高は康政と共に徳川家康に仕えた。

その後は旗本先手役を勤めている。

1573年天正元年、康高は、遠江馬伏塚城を武田軍の侵攻から死守している。

さらに1574年天正2年、第一次高天神城の戦いが起こると康高は、城主の小笠原長忠の与力として、籠城戦に参加し、奮戦するも、2ヶ月の壮絶な籠城戦の末に、武田方に降伏した。

この時、武田勝頼は、寛大な処置を取ったことで、康高は、徳川家康の元へ帰属を果たすことができた。

家康は康高の籠城戦の強さを見込んで、武田方となった高天神城の抑えとして、馬伏塚城を与えられた。さらに高天神城奪還の秘策として、1578年天正6年、横須賀城の築城を始める。

1578年天正6年8月、徳川方が高天神城の城下に火を放ち、武田軍が打って出てきたところを横須賀軍が迎撃し、合戦となる。

同年9月には、武田勝頼が高天神城を支援すべく出張ってくると、徳川家康、松平信康らが同じく馬伏塚城を支援すべく出張ってきた。

この時、武田勢の先鋒は、武田方に降伏したかつての同僚・小笠原長忠であった。康高は横須賀衆と呼ばれる猛者を引き連れ出陣し、武田勢の諸将を斬って、武功を上げている。

一連の横須賀城と高天神城を巡る武田勢との合戦で、康高は力戦し、数多くの武功と敵の首級を上げた。

1582年天正10年、武田家が滅亡すると、康高はそれまでの手柄を認められ、松平姓を与えられている。

1584年天正12年、小牧・長久手の戦いでは、康高は、徳川軍の先鋒を勤め、羽柴軍を追い詰める働きを見せた。だが、軍略の名手として名高い・堀秀政の見事な采配の前に康高の軍勢は敗れた。

1585年天正13年、徳川軍は信濃の真田氏攻めで苦戦する。この支援のため、康高は井伊直政と共に、上田城へ派兵されている。

康高は、実子が仏門に帰依したため、榊原康政に嫁いだ娘が産んだ忠政を養子に迎えている。