さなだけ

真田家の本家は、滋野氏とされる。滋野氏は清和天皇の子・貞保親王にはじまるとする説、百済王の末裔とする説など諸説がある。

滋野朝臣恒蔭の子孫とする説が最も有力である。

滋野氏は、海野、禰津、望月の三家に分かれ、その海野氏から分家したのが真田氏とされる。

真田幸隆の代、1541年、信濃の豪族・村上義清が甲斐の武田信虎と協合して滋野一族を攻撃する。滋野一族は上野国へ落ち延びる。

幸隆も一時、上野へ逃れていたが、天文年間に武田信虎の子・信玄が信濃に進出するとこれに従う。幸隆は、村上義清の居城・戸石城を計略によって落とし、武田の信濃進出に貢献した。

智謀は武田家屈指を誇り、恩賞により旧領回復を果たした。

1575年、長篠の戦いにて武田家が織田・徳川連合軍に大敗すると真田家も風雲急を告げた。真田家当主の信綱と実弟・昌輝が長篠の戦いにて戦死したからである。

幸隆の三男・昌幸が急遽家督を継ぎ、武田家を支えることとなる。

1582年、織田氏の侵攻により武田家が滅亡すると、真田家は窮地に立たされる。織田信長が本能寺の変に倒れると信州は混沌とする。

昌幸は真田家のお家芸の智謀の限りを尽くして対処する。

徳川・北条・上杉の三勢力を巧みな外交術で渡り抜き、豊臣秀吉に与することで、勢力維持を成す。

1600年関ヶ原合戦では、昌幸と次男・信繁が西軍につき、長男・信幸は東軍について戦うこととなる。

昌幸は信州を通過する徳川軍本隊を率いる徳川秀忠を巧みに籠絡して、主戦場の関ヶ原への遅参せしめる戦果を上げる。

関ヶ原合戦後、西軍についた罪により昌幸、信繁父子は紀州九度山に配流となった。1614年大坂の役が起こると、信繁は大坂方につき、再度、徳川と対決する。

徳川家康の首級を挙げようと奮戦し、壮絶な突撃戦を繰り広げ、ついに討ち死にを成す。

「真田日本一の兵」と賞賛され、信繁(幸村)の血筋は、伊達家仙台藩、片倉家に残る。