池田 恒興
いけだ つねおき
1536-1584
享年49


名称:勝三郎、経与、信輝、
勝入、紀伊守


居城:摂津伊丹城→摂津尼崎城
→摂津花隈城→美濃岐
阜城

■摂津池田の武人、池田恒利
の子といわれる。

■恒興の母・養徳院が信長の
乳母となったことから、恒興
の人生は信長とともにあった
といっても過言ではない。

■幼少の頃から信長の遊び友
達として仕え、信長の放蕩無
頼な遊びに付き合っていた。

■桶狭間合戦、伊勢攻略戦など
に従軍し、織田軍諸将の末席
に列した。

■姉川合戦で徳川軍の後詰とし
て活躍。朝倉軍撃破の一軍功
を立て、出世の道へと入る。

■1580年、信長に謀反を起した
名将・荒木村重の属城花隈城
を攻略した恒興は、その軍功
褒賞として摂津有岡の地を与
えられ、織田家家臣大名の仲
間入りを果たす。

■このとき、恒興は入道して勝入
と号し、以後、摂津諸城を統
括する大任に精進することと
なる。

■織田家領地支配の一翼を担う
大任に就いた恒興は、1582
年5月、再び出世する機会を
得る。
信長が出張る中国征伐の先
鋒の役を受け、摂津に戻り出
陣準備をしていた恒興に本能
寺の変の報が伝わる。
この時の、恒興の立場は微妙
であった。恒興は同じく中国征
伐の命を受けていた明智光秀
の指揮下にあった。
恒興と同じ立場にあった中川
清秀、高山重友らを統括し、光
秀討伐の兵を起すだけの力
量を恒興は備えていなかった。
兵力的にも組織力的にも明智
光秀より貧弱だった恒興にとっ
て光秀討伐軍を起す気力がで
なかったのは仕方がないといえ
なくもない。

■光秀からの誘いに立場を窮して
いた恒興に秀吉が中国大返し
と離れ業の報が届く。
秀吉が信長の弔い合戦という
旗幟を鮮明に打ち出してきたこ
とで恒興の腹は決まる。
秀吉軍に合流した恒興は天下
分け目の天王山の戦いで秀吉
軍右翼を担当。池田隊の決死
の覚悟を見せた力戦で秀吉軍
の勝利に喫する。

■山崎合戦での軍功のおかげで
恒興は、信長亡き後の織田家
にあって、羽柴秀吉、柴田勝家
、丹羽長秀とともに四宿老とな
り、織田家政権に強い立場を得
るという人生最高の栄華を極
める。

■1583年、賤ヶ岳の戦いでも秀吉
に協力し、活躍。秀吉より褒賞
として摂津二郡に加えて、織田
信孝の遺領・美濃13万石と岐
阜城を賜った。

■秀吉政権下で、出世の道を見出
した恒興は、1585年恒興にとっ
て、最後の地となる秀吉と家康
の激戦長久手の戦いに出陣す
ることとなる。
恒興は、1万2000という人生
最大の兵員を動員してこの戦い
に臨んだ。恒興としてみれば、
秀吉政権下で出世頭として競う
前田利家に一歩先んじたかった
という思いもあったことだろう。

■開戦当初から、恒興の意気込み
は凄まじく、織田信雄の所有城
・犬山城を包囲、攻略するとい
う軍功を立てた。
恒興のこの目覚しい活躍もむな
しく、小牧にて秀吉軍と徳川軍
はにらみ合いのこう着状態とな
る。
事態が展開しないのにいらだっ
た恒興は打開策として小牧山を
迂回して徳川軍の本拠三河を突
く作戦を立て、秀吉に進言する。
秀吉は敵の裏庭に軍を進めるこ
とに気が進まなかったが、秀吉
の甥・三好秀次が総大将をかっ
て出るなど諸将の意気込みを抑
えきれない秀吉は、不本意のま
ま出陣を許した。

■密かな行軍も家康の張り巡らした
忍者により家康に知られることと
となる。
地の利を有した徳川軍は強かっ
た。存分に地の利を生かしが奇
襲攻撃を立てた徳川軍の前に手
も足も出せず、反撃も退却も中
途半端のままに次々と討死し、
恒興は自身はもちろんのこと、
嫡男・元助、娘婿の森長可など
一族がことごとく討死するとい
う散々たる敗北劇となった。
ここに恒興の出世劇は幕を閉じ
ることとなる。
織田家家臣団の中枢にいて、
これから栄華を極めようとして
た矢先の惜しまれる戦死であ
った。
享年49歳。