wikipediaより参照:織田信忠 図像 総見寺蔵

織田信忠とは?—織田信長の嫡男として生きた悲劇の武将

織田信忠(おだ のぶただ、1557年?~1582年)は、織田信長の嫡男(正式な後継者)として生まれ、若くして戦場での才能を発揮した武将です。父・信長の期待を受けながらも、本能寺の変(1582年)で明智光秀の軍勢に襲われ、わずか26歳(または25歳)で生涯を閉じました。

本稿では、信忠の生涯や人柄、戦功、織田家中での立場、本能寺の変での最期までを詳しく解説していきます。


1. 織田信忠の誕生と幼少期

▶ 生誕:1557年?(弘治3年?)
織田信忠は、戦国時代の覇者・織田信長の嫡男として誕生しました。母は正室の生駒吉乃(いこま きつの)とされ、弟には織田信雄(のぶかつ)、織田信孝(のぶたか)らがいます。

信長の長男であったため、幼少期から家督を継ぐことを期待され、武芸や戦術を学びました。

▶ 幼名:奇妙丸(きみょうまる)
信忠の幼少期の名前は「奇妙丸」といい、信長が「他の子供とは違う異才を持った子供に育ってほしい」と願って名付けたとも言われます。

幼少期の記録は少ないですが、信長が美濃攻略(1567年頃)を進めていた頃にはすでに信忠も織田家の後継者として認識されていました。


2. 初陣と戦功

▶ 初陣:長篠の戦い(1575年)

信忠の初陣は、1575年(天正3年)の長篠の戦いとされています。この戦いでは、信長・徳川家康の連合軍が、武田勝頼率いる武田軍を撃破しました。信忠は、この戦で実戦経験を積み、初めて戦場での武功を挙げました。

▶ 1579年:松永久秀の討伐(信貴山城の戦い)

1579年(天正7年)、信長の命を受け、大和の戦国大名・松永久秀(まつなが ひさひで)を討伐しました。
松永久秀は、織田家に反逆し、信長の敵となっていましたが、信忠は信貴山城(奈良県)を包囲し、これを攻略。松永久秀は敗北し、自害しました。

この戦いでの功績により、信忠は「将としての力量を示した」と評価されました。

▶ 1582年:武田家の滅亡(天目山の戦い)

1582年(天正10年)、信忠は織田軍の総大将として**武田勝頼を討伐する「甲州征伐」**を指揮しました。
織田・徳川・北条の連合軍が武田領に侵攻し、信忠は主力軍を率いて進軍。武田勝頼は天目山(現在の山梨県)で追い詰められ、自害しました。

この戦での信忠の采配は非常に優れており、「父・信長に匹敵する器量を持つ」と高く評価されました。


3. 織田家の後継者としての立場

▶ 織田家の後継者としての指名

1579年(天正7年)、信長の命令により、信忠は「織田家の正式な後継者」とされました。
これは、弟の織田信雄や織田信孝を差し置いて、信長が最も有能と判断したためです。

この頃から信忠は、岐阜城の城主となり、信長の代わりに戦国大名たちとの交渉を担当するようになりました。


4. 本能寺の変(1582年)と信忠の最期

wikipediaより参照:二条良基邸・二条殿址。京都市中京区

▶ 本能寺の変とは?

1582年(天正10年)6月2日未明、明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺に滞在していた信長を襲撃しました。これが本能寺の変です。

この時、信忠は二条御所(京都)に滞在していました。父・信長の死を知った信忠は、近臣と共に脱出を試みますが、明智軍がすでに周囲を包囲しており、逃げ場を失いました。

▶ 信忠の最期(二条御所の戦い)

信忠は父のように逃亡することを選ばず、二条御所に立てこもって徹底抗戦しました。

  • わずか500の兵で明智軍の軍勢と戦い、一時は撃退する
  • しかし、数の差は圧倒的であり、ついには二条御所が炎上
  • 最後は自害し、26年の生涯を閉じる

織田家の嫡男でありながら、信忠はあくまで「織田の主君」として責任を全うし、戦場で命を落としました。


5. 信忠の死後と織田家の混乱

信忠の死後、織田家は一気に混乱しました。

  • 織田信長とその嫡男・信忠が同時に死んだことで、織田家の後継者が不在に
  • 残された弟・織田信雄と信孝が後継者争いを始める
  • 最終的に豊臣秀吉が台頭し、織田家の主導権を握る

もし信忠が本能寺の変で生き延びていたら、織田家の運命は変わっていたかもしれません。


6. 信忠の人物像と評価

▶ 信忠の性格

信忠の性格については、以下のように評価されています。

冷静沈着で聡明:戦場では落ち着いた指揮を取り、無駄な戦闘を避ける傾向があった
忠義に厚い:最後まで逃げず、二条御所で自害したことがその証拠
父・信長とは異なる寛容な性格:信長が苛烈な性格だったのに対し、信忠は穏やかな性格だったとされる

▶ 信忠の評価

戦国時代の武将たちは、信忠を「将として優秀であった」と高く評価しています。
しかし、もし本能寺の変がなければ、信忠は天下統一を成し遂げていた可能性が高いでしょう。


7. まとめ:織田信忠とはどんな人物だったのか?

🔹 織田信長の嫡男として生まれ、優れた戦績を挙げる
🔹 1579年、正式な織田家の後継者に指名される
🔹 1582年、本能寺の変で父と共に倒れ、織田家の運命が変わる
🔹 もし生きていれば、織田家が天下統一を果たしていた可能性が高い

織田信忠は、戦国時代において最も惜しまれる人物の一人と言えるでしょう。