wikipediaより参照:織田信孝 図像 太平記英勇傳:丹部侍従平春高[注釈 1]歌川国芳作)

父・信長の弔い合戦の総大将を務めた三男・織田信孝とは、どんな人物だったのか?

織田信孝(おだ のぶたか、1558年?~1583年)は、織田信長の三男であり、本能寺の変後の「弔い合戦」の総大将として活躍した武将です。

彼は軍事的才能に優れ、織田家の中で武将としての評価が高かった一方で、政治的な判断に難があり、短気で頑固な性格だったと言われます。織田家の後継争いでは豊臣秀吉(羽柴秀吉)と対立し、最終的には秀吉に敗れて自害しました。

本稿では、織田信孝の生涯、戦功、性格、秀吉との対立、そして最期について詳しく解説していきます。


1. 織田信孝の基本情報

項目内容
生誕1558年?(永禄元年?)
父親織田信長
母親側室(名前不明)
兄弟織田信忠(長兄)、織田信雄(次兄) など
役職美濃(岐阜)国主、織田家三男、弔い合戦の総大将
主な戦功本能寺の変後の光秀討伐(山崎の戦い)、賤ヶ岳の戦い
最期1583年(天正11年)、秀吉に敗れ自害(享年26歳)

2. 織田信孝の幼少期と武将としての成長

▶ 織田信長の三男として生まれる

信孝は1558年頃、織田信長の三男として生まれました。母親は側室で、正室・生駒吉乃の子である信忠とは異なり、家督相続の最有力候補ではありませんでした。

▶ 幼少期に伊勢国(三重県)神戸家に養子に出される

信長は、信孝を伊勢国北部を支配していた豪族(国衆神戸氏の養子へと送った。信孝は、神戸家第8代当主となり、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも名乗った。

▶ 美濃(岐阜)の国主となる

その後、信長の命により信孝は美濃(現在の岐阜県)を治めることになりました。美濃は戦略的に重要な拠点であり、信孝は軍事指揮官としての役割を果たすようになります。


3. 本能寺の変と弔い合戦の総大将

▶ 1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変勃発

1582年6月2日、明智光秀が謀反を起こし、本能寺にいた織田信長と長男・織田信忠が討たれました(本能寺の変)。

この知らせを受けた信孝は、すぐに敵討ちのための行動を開始しました。

▶ 弔い合戦の総大将に任命

本能寺の変直後、織田家の家臣たちは織田家の後継者を誰にするか議論しました。

  • 長男・信忠はすでに自害していた
  • 次男・信雄は戦に弱く信用がなかった

このため、軍事的才能に優れた三男・信孝が「織田家の弔い合戦の総大将」に選ばれました

▶ 明智光秀討伐(山崎の戦い)

信孝は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と協力し、父・信長の仇である明智光秀を討伐しました。

  • 秀吉軍と信孝軍は合流し、山崎(現在の京都府)で明智光秀と戦う
  • 「山崎の戦い」で光秀軍を撃破し、光秀は敗走して落ち武者狩りで討たれる

こうして信孝は見事に父・信長の仇を討ち、織田家の名誉を守ることに成功しました。


4. 秀吉との対立と賤ヶ岳の戦い

▶ 織田家の後継者争い

明智光秀を討った後、織田家の家督を誰が継ぐかが問題となりました。

  • 信孝は、織田家の家督を信長の孫(信忠の子・三法師)に譲ることを主張
  • しかし、実権は信孝自身が握ろうとした
  • これに対し、羽柴秀吉が反発し、対立が激化

▶ 賤ヶ岳の戦い(1583年)

織田家の後継者問題は、織田信孝と柴田勝家(しばた かついえ)が手を組み、秀吉と戦う形になりました。

  • 織田信孝+柴田勝家 vs. 羽柴秀吉 の戦いとなる
  • 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗北し、信孝も孤立
  • 信孝は岐阜城で秀吉に降伏

5. 最期:羽柴秀吉に敗れ、26歳で自害

信孝は秀吉に降伏しましたが、その後も信孝の態度は従順ではありませんでした。そのため、秀吉は信孝を幽閉し、1583年(天正11年)5月2日、切腹を命じました

信孝は潔く命を絶ち、享年26歳。
辞世の句(最後の言葉)は以下の通りです。

「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
(昔から、主君を討った者は必ず報いを受けるものだ。秀吉よ、お前もその運命を待つがいい)

この言葉からも、信孝が最後まで秀吉を恨んでいたことがわかります。


6. 織田信孝の評価とまとめ

✅ 信孝の長所

軍事的才能があった(山崎の戦いで活躍)
勇敢で忠義に厚かった(父・信長の弔い合戦を率いた)
最後まで織田家を守ろうとした

❌ 信孝の短所

政治的判断力が弱かった(秀吉との交渉が下手)
短気で頑固だった(秀吉と戦い、自害に追い込まれる)

🔵 まとめ

  • 信孝は武将としては優秀だったが、政治的に未熟だった
  • 織田家を守ろうとしたが、秀吉の権力には勝てなかった
  • もし政治力があれば、秀吉のライバルとして生き残れた可能性もある

彼はまさに「戦場の英雄、政治の敗者」だったのかもしれません。