wikipediaより参照:織田信雄 図像 (總見寺蔵)

織田信雄(おだ のぶかつ、1558年?~1630年)は、織田信長の次男でありながら、「無能」と評されることが多い武将です。
しかし、彼は戦国時代の激動を生き延び、戦国大名として最後まで生き残った数少ない織田一族の一人でした。

本稿では、信雄の生涯・戦歴・評価・最期について詳しく解説し、彼が本当に「無能」だったのかを考察します。


1. 織田信雄の基本情報

項目内容
生誕1558年?(永禄元年?)
父親織田信長
母親側室(長益院?)
兄弟織田信忠(長兄)、織田信孝(三男) など
役職織田家当主、伊勢・尾張国主、大名
主な戦功ほぼなし(小牧・長久手の戦いでは敗北)
評価無能、凡庸、戦下手
最期1630年、73歳で死去

2. 幼少期と家督争いへの道

▶ 織田信長の次男として生まれる

信雄は織田信長の次男として誕生しました。母は側室であり、正室の子である織田信忠(長男)が家督を継ぐことが決まっていたため、信雄はあまり重要視されていませんでした。

▶ 伊勢・尾張の領主となる

織田家の拡大に伴い、信雄は1570年代後半に伊勢・尾張(現在の三重県・愛知県)の領主となりました。しかし、彼の統治はあまり上手くいかず、家臣の間でも「無能」と見られていたようです。


3. 織田信雄の最大の試練:本能寺の変(1582年)

▶ 本能寺の変で織田信長・信忠が死亡

1582年、本能寺の変で父・信長と兄・信忠が討たれ、織田家の後継者問題が発生しました。

  • 信忠(長男)は本能寺の変で自害 → 事実上、家督相続者が不在に
  • 信雄(次男)と信孝(三男)のどちらが後を継ぐかが問題に

▶ 豊臣秀吉が後継者として「三法師」を擁立

織田家の家臣たちは、信長の孫(三法師)を後継者とし、その後見人として信雄が擁立されました。
しかし、実権は豊臣秀吉が握ることになり、信雄は織田家の実質的な主導権を失いました


4. 豊臣秀吉との対立と「小牧・長久手の戦い」

▶ 織田信雄 vs. 豊臣秀吉

信雄は、織田家の主導権を秀吉に奪われることを嫌い、1584年に徳川家康と同盟を結び、豊臣秀吉に対抗することを決意しました。
これが「小牧・長久手の戦い」(1584年)です。

▶ 「小牧・長久手の戦い」の結果

  • 徳川家康は局地戦では秀吉軍を撃破(長久手の戦い)
  • しかし、信雄自身はほとんど戦果を上げられず、秀吉と単独で講和
  • 信雄は勝手に秀吉と和睦し、家康を裏切る形に…

この時点で、信雄の政治的センスのなさが露呈し、家康や多くの武将たちから「信雄は信用できない」と見られるようになりました。


5. 織田信雄の失脚とその後

▶ 1585年、秀吉による圧力で領地没収

小牧・長久手の戦いの後、信雄は秀吉によって伊勢・尾張の領地を没収され、大名としての地位を失いました

信雄は大名としての地位を奪われながらも、しぶとく生き延びました。

▶ 関ヶ原の戦い(1600年):西軍につくも生き残る

  • 1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍(石田三成側)に属する
  • しかし、西軍が敗北すると、すぐに徳川家康に降伏
  • なんと、家康は信雄を許し、大名として再び復帰させた

この生存能力の高さは、ある意味「無能ではなく運が強い」とも言えます。


6. 晩年:戦国乱世を生き延びた織田の血筋

▶ その後も生き続け、1630年に死去

信雄はその後も生き延び、最終的に1630年(寛永7年)、73歳で死去しました。

これは、織田信長の息子たちの中で最も長生きした人物となります。


7. 織田信雄の評価とまとめ

✅ 織田信雄の良い点

とにかく生き延びる能力が高かった(戦国大名としては成功)
家康と秀吉の間で上手く立ち回り、大名の地位を保った
織田信長の血を長く存続させた

❌ 織田信雄の悪い点

戦下手で、戦場ではほとんど活躍なし
政治センスがなく、何度も自分の地位を危うくした
家康や秀吉からも信用されず、最後まで利用されるだけだった

🔵 まとめ

  • 「無能」ではあるが、戦国時代を生き抜いたしぶとい武将
  • もし信忠が生きていたら、信雄の影はもっと薄かったかもしれない
  • 「凡庸な将」と評されながらも、最終的には生き残ったという点では成功者

織田信雄は、「戦国武将としての能力は低かったが、生存能力は高かった」人物と言えるでしょう。