ほうじょう うじやす
1515-1571
享年57歳。
名称:伊豆千代丸、新九郎、左京大夫
、相模守
居城:相模小田原城
■後北条家二代目当主・北条氏綱の
嫡男として誕生。
母は、伊豆の地侍・朝倉氏の娘。
■祖父・北条早雲が伊豆一国の覇者
となり、相模・武蔵方面へ勢力拡大
策を北条家の家訓方針と定めてい
たことにより、氏康自身もこれに従
い、関東一円制覇を目指し軍馬を
推し進めた。
戦国の名将はこと初陣に対して、
必ずといっていいほど華々しい戦
果を飾っているものだが、氏康も
その範疇内にしっかりと収まって
いる。
1530年、氏康16歳にして北条氏
対上杉朝興との合戦に出陣。
氏康は上杉軍を敗走させる華々
しい戦果を飾って、見事な初陣を
果たしている。
■1541年、堅実な武将として知られ
た父・氏綱が没すると氏康は北条
家家督を無難なく継いだ。
この時、父・氏綱は、死ぬ直前に
氏康を枕下に呼び、戦国乱世の大
名としての心得を記した五ヶ条の遺
言を与えている。
氏康はこの遺言を固く守り、北条家
の関東制覇の覇業を推し進めてい
った。
■1541年、父・氏綱が死んで間もない中、
関東の諸大名たちは、関東に進出して
きた北条氏を討ち果たすべく軍事行動
を始動。
扇谷上杉家の上杉朝政が北条氏の
河越城を奪回すべく軍事侵攻してきた。
河越城をめぐる上杉軍と北条軍の熾烈
な戦いが繰り広げた結果、かろうじて
若輩者の氏康は敵を斥けている。
合戦経験の浅い氏康が合戦馴れした
関東武士を斥けたこの戦いは、氏康が
非凡な武将であったことを示す証明に
なるものといえよう。
■1544年、房総半島の雄・里見氏が北条
氏に敵対すると氏康は安房に進出。
里見軍との熾烈な戦いの口火を切った。
北条家にとって、里見氏はまさに関東
最大の宿敵となり、代を超えて熾烈な
戦いを繰り広げていくことになる。
■1545年、この年は氏康にとって、生涯
最大の危機を迎えることと成る。
東海道一の弓取りにして室町幕府・
副将軍の家格を持つ名家・今川氏の
当主・今川義元が、かつて今川家の付
属武将にすぎなかった後北条氏が関
東の地で領土拡大の飛躍をしようとし
ていることに腹を立て、関東管領・上杉
憲政と結託して北条氏討伐の兵を動か
したのである。
この今川軍関東進出には、甲州の雄・
武田信玄も今川軍の援軍として参軍し
ていた。
これを迎え討った氏康は、早々に撃退
することができず、今川・北条の両軍は
にらみ合いのままこう着状態と化した。
そんな情勢の中、同年10月北条氏に
味方していた古河公方・足利晴氏が北
条氏の滅亡近しと判断して北条氏を見
限り、扇谷上杉朝政と連合して北条方
の河越城を包囲した。
前後左右を敵に囲まれてしまった氏康
はどこにも救援を望めず、生涯最大の
窮地に立たされる。
一向に開運の兆しを見出せない氏康
は、関東の守護神・鶴岡八幡宮に詣で
て、困窮打開の開運祈願を行うなどし
て、戦国屈指の名将も万策尽きて、た
だただ神頼みするほかはないといった
状況であった。
■この北条氏討滅寸前の状況の中に
あって、事態収拾に動いたのが以外に
も、甲州・武田信玄であった。
信玄は、北条氏が今川氏によって討ち
滅ぼされれば、北条氏の領土を今川氏
が支配することになり、今川氏の勢力
が一段と強大と成ることを恐れた
のだ。
今川氏の一人勝ちが成れば、武田家
の甲州地方も危なくなると計算した
のだ。
信玄は今川・北条の二大勢力が拮抗し
合えば、甲州の地を東海道武士と関東
武士に脅かされる心配がなくなるとい
う広大な情勢分析を成したのだった。
信玄の働きかけで今川・北条両氏のは
和議を成立させ、東海道・関東・甲州
の三つの地域は互いに拮抗し合い、連
立することにしたのである。
当時、信玄は今川氏、北条氏から見れ
ば、まだまだ若輩者の小勢力と見られ
ていた。
信玄自身もまだこの時は、甲州兵法が
成立しておらず、無敵の武田騎馬隊に
代表される
すぐれた軍制組織は未完のままであ
った。
このため、地理的に見て、甲州の地
は、山岳地帯とは言え、関東、東海の
二方面に隣接する地理的な要衝であり
、簡単に攻め込める攻略し易い地形で
あった。
そのため、甲斐ののど元にある駿河、
伊豆、相模は甲州地方の生命線であり
、防御のし難い地形であったのだ。
この地形の利を活かせない以上は、こ
れを補うべき、強兵組織の成立が不可
欠であった。
しかるにこの時期の信玄は、武田家当
主となってまだ日が浅い。いかに信玄
が戦国屈指の軍略の名手であったとし
ても、その軍略を達成するには強力な
軍備組織が不可欠であり、その成立に
はまだまだ時間がかかったのである。
この事は、信玄自身が骨身にしみるほ
どによく知っていた甲州の弱点であり、
この弱点を義元も氏康も薄々は気付い
ていたと見て間違いない。
それ故に信玄の当時の立場は、後世、
戦国屈指の名将と賞賛されるような堂
々とした態度とは打って変わって、今
川氏と北条氏の仲介役をかって出るな
どの小間使い程度の態度しか取れな
かったのである。
今川、北条の両氏に恩義を売って、友
好関係を強くすることに熱心だったこと
も、信玄にとては、甲州の地に存続で
きるかどうかという
死活問題として最重要問題であった
のだ。
このような今川、北条、武田の三氏が
拮抗し合う同盟は成立を見るので
ある。
和議成立の内容は、北条氏側がか
つて租借していた駿河領を今川氏に
返還するというもので、この和議が後
に発展して、甲相駿三国同盟となるの
であった。
■今川、武田氏と和議を結んだ氏康は、
後顧の憂いをなくしたことで、余念なく
関東制覇の軍事行動を活発化できるこ
ととなった。
1546年、北条方の河越城を包囲して
いた、扇谷上杉軍、山内上杉軍、古河
公方・足利軍の連合軍を氏康は攻撃し
、これを撃破した。
敗走中に扇谷上杉家の当主が落馬に
より、死去し、扇谷上杉家はあえなく滅
亡した。
山内上杉軍は上野へ、足利晴氏は古
河へそれぞれ兵を退いた。
こうして氏康にとって生涯最大の窮地
は打開するに至ったのである。
この北条氏の大勝利は、関東武士を
北条氏へ準拠すべき空気を作り出し、
結果として、滝山城主・大石定久、天神
山城主・藤田邦房ら関東の土豪たちが
次々と北条氏の配下となっていった。
北条氏の関東の地における支配力は
土豪の心服にまでおよび、後北条氏は
ますます強大な基盤を成すに至ったの
である。
■1551年、氏康は山内上杉家の居城・上
野平井城を攻略し、関東管領・上杉憲
政を追放した。
追放された憲政は、以前から親交のあ
った忠義に厚い越後の虎・長尾景虎を
頼った。
景虎は関東の地を侵害し続ける北条
氏を打倒して、関東の地に新しき秩序
を作り上げて見せる旨を上杉憲政に
伝えた。
憲政はその信義の厚さに感銘し、景虎
に上杉姓を与え、関東管領の職も受け
継がせ、関東の地を統治することを期
待した。
こうして、景虎は上杉姓を名乗り、後に
政虎、輝虎、そして謙信と改名して、関
東の地に屈強な越後勢を侵攻させて
行くのであった。
北条氏康にとって、生涯を通じて最も
強敵となったのがこの長尾景虎こと上
杉謙信であった。
■1554年以降、北条氏は房総半島の雄・
里見氏と熾烈を極める戦いを繰り広げ
て行く。
氏康が最も頼りとした北条家一の智勇
の将・北条綱成を総大将とする房総席
巻隊を組織し、北条軍は本腰を入れて
、里見氏攻めを繰り広げた。が、里見
義堯が死守する久留里城は、攻めども
攻めども一向に落ちる見込みがつかな
かった。
この久留里城の堅守により、氏康はじ
め、北条家重臣がこぞって、房総半島
へ軍兵をなだれ込めず、頭を抱えてい
る中、1556年、逆に安房経由で里見義
弘が海を渡り、北条家の本拠地であ
る相模国に上陸する。
本拠地で敵軍と戦うはめとなった北条
軍は、将兵の足並みが整わず、房総の
地不出の勇将・里見義弘の前になで斬
りにされた。
この城ヶ島での戦いでは北条軍に数多
くの死傷者が出て、北条氏の名だたる
武将もかなり討たれた。
北条軍は今までにない大敗を喫し、氏
康にとっても生涯最大の失態劇となっ
てしまった。
■1559年、氏康は頼りない嫡男・氏政に
家督を譲り、隠居した。氏康、時に45歳
。氏政、時に22歳であった。
家臣団を切り盛りする手腕には長けて
いた氏政であったが、情勢を見極める
眼力に欠けたものを感じていた氏康は
、生涯を通じて全面的に氏政を信任す
ることはなかったという。
■関東の地で幾度となく修羅場を切り抜
けてきた、氏康はその処世術として研
ぎすまされた感覚で行く先々の情勢を
機敏に感知し、その局面において、次
の一手を適切に決め、詰めよにする、
すぐれた胆力と器量を持ち合わせて
いた。
その鍛え抜かれた氏康の眼力は、嫡
子・氏政をどのように見ていたのかそ
の逸話が今日に伝え残っている。
”二度汁の嘆息”といわれるこの氏康
ゆかりの逸話は、五代北条記では有名
な一節である。氏康が嫡男・氏政と食
事を共にした。
その時、氏康が氏政の食事振りを見て
、大きくため息をつきつつ、『北条家も
自分の代で終るだろう』と嘆いたと
いう。
氏政や側近くにいた家臣たちがその訳
を聞くと、『氏政が飯に二度汁をかけた
からだ』と答えた。
食事は毎日するものなのに、飯にどの
くらい汁をかければよいのかその適量
も一度で見極められないようでは、事
の情勢判断を的確に見極めることはで
きないと氏康は見てとったのだ。
戦国屈指の名将として厳格な気質を持
つ氏康と共に食事したことで氏政が緊
張していたためにそのような馬鹿振り
の食事をとったという見方もできなくは
ない。
氏政自身をよく弁明するならば、氏康
没後、関東一円に北条氏最大領土の
拡大を実現した氏政の力量は氏康が
懸念したほどでもない活躍を見せ
ている。
しかし、氏政が人材の切り盛り手腕に
長けていた武将であったとしても、父・
氏康が指摘した情勢判断の甘さという
点では的を射ていたと言える。
確かに豊臣秀吉という天下人を軽んじ
、はむかったことで氏政存命中に五代
に渡る栄華を誇った後北条氏を無用の
滅亡に追い込んでしまうのである。
その点で氏康の的確にその人物の才
覚を見極めてしまう眼力の凄さには、
ただただ驚かされてしまう。
戦国の名将と呼ばれた人たちは、とか
くすぐれた眼力を持っているもので
ある。
豊臣秀吉も九州遠征で九州の地を踏
んだ際に、九州平定後の評定で九州
の名だたる武将と謁見している
が、この時、九州一の武将は、鍋島直
茂と立花宗茂であるとしている。
たった一度の謁見で九州屈指の名将
を探り当ててしまう秀吉の眼力は、驚
異的なものがあった。
■1560年代に入ると、上杉謙信が関東管
領・上杉憲政から正式に関東管領の職
を譲られ、関東平定の要請を受けた。
謙信も関東の地に新しき秩序をもた
らすべく義戦することを身命に誓いを
立てて、意気込み、屈強な越後勢を引
き連れて関東へ出陣した。
1560年9月、上杉軍は北条方の岩下城
、沼田城などを猛攻し、北条方諸将を
震え上がらせた。
同年10月に入り、氏康もようやく重い
腰を上げて、出陣。武蔵松山城に入り
、上杉軍を迎え討つ態勢を取った。
徹底した篭城戦の構えを見せる北条方
に対し、大軍を擁して遠征してきている
上杉軍は、食料の補給に常に困って
いた。
まともな合戦もしないままに上杉軍は
撤退を決定した。
撤退するに際して、謙信は慌てて退き
上げずに鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮
で関東管領就任の儀式を執り行って
いる。
まるで関東の地を我が領地の如く、振
る舞いつつゆったりと謙信は本国・越
後へと撤退していったのである。
敵の領土内でこれほどまでに悠々とし
た行動を取る謙信の剛胆さには、驚か
されるが、それだけ自身が持つ強力な
武勇という裏打ちされたものがあるか
らこそできる行動であったともいえる。
大虎の口の前で小躍りするが如く、敵
のテリトリー内で縦横無尽に駆け巡り
つつ、泰然として引き上げる謙信の姿
を城に篭る氏康は「つくづく食えぬやつ
」と苦笑いしていたに違いない。
■1564年、50歳を迎えた氏康は、房総の
雄・里見氏を討ち滅ぼさねば、北条氏
の安泰を見る事がないとして、2万の大
軍を率いて、江戸川付近へ出張った。
里見軍もこれに応戦し、北条、里見両
軍は江戸川を挟んでにらみ合うことと
なる。
父にして篭城の名手・里見義堯に代わ
って、房総の地不出の勇将・里見義弘
が屈強な里見軍を率いていたが、こう
着状態を避けるべく、いったん本国へ
帰還し、里見の軍兵を調える行動に
出た。
この里見軍撤退の模様を見た氏康は、
逃してたまるかと勇んで追撃部隊を編
成。猛烈な追撃を開始した。
しかし、さすが氏康が我が子にほしい
とまで言わしめた
勇将・里見義弘である。
敵・北条軍が追撃してきたことを知り、
義弘は国府台で里見の軍兵を返してこ
れに応戦。
この国府台での逆襲劇で北条軍は名
だたる武将を討ち取られ、大敗を喫し
てしまう。
勝利に沸く里見軍を尻目に氏康は、勝
ち戦に浮き足立つ里見軍の隙を突いて
、国府台に布陣する里見軍の
背後を夜襲。これにはさしもの勇将・里
見義弘も応戦できず敗退。
こうしてようやく氏康は、強敵・里見義
弘から勝利を得たのであった。
■戦国屈指の名将の内に入る北条氏康
であるが、軍事面では劣勢を挽回する
ことに長けていたといえる。
また、あの鬼騎馬と称された武田騎馬
隊を率いる武田信玄や軍神として恐れ
られた上杉謙信と互角に戦い、一度も
負ける事無く、勝利するか引き分ける
かどちらかであったという点において、
氏康の軍略の才は、すぐれていた証明
となる。
軍事面だけでなく、内政面においても
すぐれた才能を発揮した氏康は、検地
、税制改革、貨幣統一など領国経営に
並々ならる労力を注ぎ込んでいる。
検地に至っては、1542年に北条家の
家督を継いで以来、大規模な検地を実
施して、正確な領土石高を測り、国政
に反映させてきた。
1550年には、税制を改革して、従来の
実施方法を見直し、税を段銭、懸銭、
棟別銭に整理統合を図り、領土内の
経済活発を促進している。
また、この氏康の近代的な内政管理は
、少数のものに管理させることなく、各
領土ごとの家臣団に整理させ、”所領
役帳”を作成して、一門や家臣団の役
高をすべて記録に留めるといった徹底
事務管理体制を布いている。
■後北条氏中興の祖、北条氏康は謙虚な
人柄であり、自分の軍略の才の甘さを
補填すべく、京都より小笠原播磨守、
伊勢備中守、大和彦三郎ら名だたる兵
法家を関東に招き、氏康直属の軍師と
して活用している。
すぐれた人選登用により、最強の軍略
を持った武田、上杉と互角に渡り合い
、後北条家を関東の雄にする基盤を
築いた氏康の采配振りは、関東武士屈
指の名将となるに足るものがあったと
いえよう。
■1570年頃から中風を病んだ氏康は、翌
年の1571年、57歳の生涯を閉じた。氏
康は、関東に領土拡大を見出した北条
家の軍事方針の下、関東に根を張る、
二大杉、扇谷上杉家、山内上杉家を打
ち滅ぼし、関東の秩序を変貌させてし
まうほどの軍略の才を見せた。
後北条家を中興させる功績を作った氏
康であったが、必ずしも満足の行く生
涯ではなかったといえよう。
それは、北条氏の行く末を案じるほど、
氏康の実子や家臣団に名将がいない
という問題があったためである。
”二度汁の嘆息”に代表されるように、
関東の名将・氏康をうならせる名将の
器を持った者に生涯、味方内から見出
せなかったことは氏康の生涯最大の不
運であったといわざるを得ない。
北条 氏康
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