ほうじょう そううん
1432-1519
享年88歳。
名称:伊勢新九郎盛時、長氏、
早雲庵宗瑞、伊勢宗瑞
居城:駿河興国寺城→伊豆韮山城→
相模小田原城
■伊勢の浪人から戦国大名にのし上
がった、戦国屈指の下剋上者。
その出自や前半生は、ほとんど謎
に包まれているが、一説に室町幕
府重臣・伊勢氏の流れをくむ伊勢
関氏の一族と伝えられている。
また、定説となりつつある出自が、
備中高越山城主・伊勢盛定の子で
一族の伊勢貞道の養子となり、伊勢
新九郎盛時と名乗った者が北条早
雲の前身という。
一般に北条早雲で知られているが、
彼自身が北条姓を名乗ったことはなく、
生前は伊勢新九郎長氏で通っていた。
■長氏は、応仁の乱後、足利義視(よしみ)に仕え、
混乱する京都の戦場を見てまわり、
足軽の者たちが大鎧を身につけた大将格の武将を
次々と集団戦法で組み伏せ、討ち取っていく姿を目にした。
効率のよい戦術を用いたものだけが、
生き延びて行ける苛酷な下剋上の仕組みを見定めていた。
主君・義視が京都を追われると長氏は、
足利家に見切りをつけ、妹が側室となっている駿河守護・今川義忠を頼った。
浪人同然の長氏であったが、妹・北川殿のおかげで今川家の客分となる。
文武両道に秀でた長氏を今川家当主・今川義忠は大いに気に入り、
酒の弱い長氏を相手に毎晩酒宴を開いたという。
義忠お気に入りの者として厚遇を受けていた長氏であったが、
1476年、遠江に出陣していた義忠が伏兵の奇襲に遭遇して、
あえなく討死してしまう。
跡には北川殿が生んだ幼い竜王丸(後の今川氏輝)が
残されたが、幼少であったために、今川家臣内で今川氏一族の
小鹿範満に家督を継がせようとする動きが起きた。
この内乱に関東の堀越公方・足利政知と古河公方・
足利成氏が干渉し、今川家中は分裂の危機に直面した。
長氏は、今川家重臣らに働きかけ、竜王丸が成人するまでは
小鹿範満に今川家の家督を仮相続するという折衷案で
今川家中をまとめ上げることに成功する。
この長氏の家中鎮静の功と竜王丸の伯父という立場から長氏は、
今川家より駿河興国寺城が与えられている。
こうして長氏は、今川家の客分でありながら、
今川家中で高い地位に就き、発言権を有するようになった。
■1491年、伊豆の堀越公方・足利政知が病没し、
伊豆公方家に家督争いが起こった。
これを見た早雲は、伊豆国を支配する絶好の機会ととらえ、
わずかな手勢を率いて、伊豆に攻め込んだ。
伊豆公方家は、少なからず抵抗を見せたが、
家中の統率が取れていないため、早雲に敗退した。
足利政知の子・茶々丸は行き場を失い自刃して果て、
名族堀越公方は滅亡した。
こうして、早雲は興国寺城を今川家に返還し、
伊豆韮山城を新たな居城と定め、関東侵攻の足がかりを掴んだ。
新たな領地支配に対して、早雲は高貴な家柄でないことから
統治の根拠をもたらすべく、当時6公4民~8公2民であった
年貢率を4公6民に引き下げて、民衆の支持を獲得した。
この早雲の処置は、早雲による伊豆の統治を磐石なものとした上、
近隣諸国の民衆までもが早雲の統治を望むまでになった。
■伊豆統治に成功した早雲は、相模小田原城の当主・
大森藤頼に接近し、貢物を贈るなどして油断させ、1495年になって、
伊豆領内から相模領内へと逃れた鹿を伊豆に追い返したいと
大森氏に願い出た。
鹿を追い立てる者を相模領内に入れる許可を大森氏に取り
付けたのである。
この鹿狩りに変装した早雲の家臣たちが深夜、牛の角に
たいまつをつけて、小田原城に向けて追い立て、さも大軍が
小田原城に攻め寄せてきたように見せかけた。
これに驚いた小田原城内は大混乱となり、この混乱に乗じて
少数の軍兵で早雲が小田原城に攻め寄せると小田原城はあっさりと
陥落してしまった。
こうして、大きな被害を出さずに早雲は、相模小田原城を
奪取することに成功したのである。
■1501年、早雲は信濃国の諏訪頼満らと図り、甲斐守護・
武田信縄を挟撃するべく、甲斐吉田へ出陣。
1504年には、上杉顕定と上杉朝良が武蔵国立河原で
合戦を起こすと、早雲は駿河の今川氏親とともに上杉朝良に
味方して援軍を派遣。
1506~1508年にかけて早雲は、駿河の今川氏親とともに
三河へ度々出撃している。
■早雲は、老齢の体を押して、相模岡崎城に拠る
三浦義同(みうらよしあつ)を1512年8月から攻撃を開始した。
東郡大庭城を攻略して鎌倉に入ると玉縄城を築城。
三浦義同、義意(よしおき)父子が篭る三浦半島の新井城を攻めた。
この新井城はかつて、早雲が三浦義同に与えた城であったが、
この城には地下に巨大な洞穴があり、そこに大量の食糧を蓄える
ことができる堅固な要塞であった。
そのため、いざ三浦氏を討滅しようとした早雲は
この新井城攻めで思わぬ苦戦を強いられることとなった。
長期の攻城戦となり、早雲も「義同にとんでもない城を
与えてしまったものだ」と嘆息したという。
早雲は自分が生きている間に三浦氏を攻め滅ぼさなければ、
安心して死ねないと定めるなど、三浦氏の底力を心底恐れていた。
この長期の攻城戦も1516年に入り、ついに新井城の食糧が尽きると、
三浦義同は出撃する前夜に最後の酒宴を城内で開き、
将兵と最後の別れの言葉を交わした。
新井城を出た三浦軍は包囲する北条軍と激戦を繰り広げた。
義同の子・三浦義意も若武者ながら奮戦し、早雲に勇猛な将ゆえに
惜しい者だと言わしめつつ、義意は壮絶な戦死を遂げた。
義同も自刃して果て、早雲は遂に三浦半島を支配する三浦氏を
滅亡に追いやった。
■三浦氏討滅に成功した早雲は、伊豆・相模の二ヶ国を支配し、
近隣の諸将も恐れる一大勢力を築き上げたのである。
領土の統治に手腕を振るった早雲は、相模国西郡で検地を行い、
国分法「伊勢宗瑞十七箇条」を制定し、領土の安寧を図った。
三浦氏討滅後は、早雲も安穏とした隠居生活を送り、
波乱万丈の人生に一時の休息を得た。
1519年、相模国三崎で舟遊びをして以来、
体調を崩していた早雲の病状が悪化し、回復する事無く、
韮山城にて没した。
享年88歳という天寿を全うしての大往生であった。