ほうじょう うじつな
1486-1541
享年56歳。


名称:新九郎、左京大夫
居城:伊豆韮山城→
    相模小田原城


■北条早雲の嫡子として誕生。
  母は、小笠原氏の娘。
  北条幻庵の実兄。

■後北条家二代目当主でありな
  が、青年時代のことは何一つ
  不明である。

  氏綱の名がはじめて見えるの
  は、父・早雲とともに相模三浦
  半島の雄・三浦氏を討滅した
  記録書である。
  1516年、氏綱26歳の時である。

  1517年には、伊豆三島大社に太
  刀を奉納して伊勢家の安泰と繁栄
  を願っている。

  1518年には平姓を称し、父・早雲
  から家督を譲られている。
  翌年1519年に父・早雲が没すると
  箱根湯本に早雲寺を建立している。

■氏綱は、伊豆・相模の二ヶ国を領有
  する一大勢力を受け継ぎ、当面の
  目的を関東一円に領土拡充を図る
  こととした。

  まず、手始めに関東で長年権勢を
  誇ってきた関東管領・扇谷上杉家の
  脱落を目論み、上杉家を支援する
  古河公方・足利高基に接近。

  氏綱の娘を高基の子・晴氏に嫁が
  せるという縁戚関係を樹立。
  さらに上杉家の重臣を内応させ、扇
  谷上杉家の屋台骨を蝕んだ。

  周到な氏綱の策謀により、磐石な
  上杉家の土台が揺らいだのを見届け
  て、1521年ついに上杉家の本拠地・
  江戸城を攻撃。

  扇谷上杉朝興を川越城に敗走させ、
  江戸城とその周辺の領土を奪取した。
  その後、江戸城奪回を目指す扇谷上
  杉家と北条氏綱との間で17年間、十
  数回に渡る攻防戦が繰り広げられる
  こととなった。

■江戸城を手中にした氏綱は、関東管領
  扇谷上杉家や足利公方など名族ばか
  りがそろう関東の地を侵略するために
  は無名な伊勢姓より関東にゆかりの深
  い”関東副将軍”の家格を持つ北条
  姓が有利と考え、後北条の姓を名乗る
  ことにした。

  伊勢氏が北条氏と何のつながりも持た
  なかったものの、北条姓にすることで、
  関東に並み居る上杉、足利氏ら名族
  と互角の家格にしようと目論んでのこ
  とと思われる。

  こうすることで、無名な家柄が関東の
  地を何の権限もなく侵略するという心
  理的な抵抗感を土着の者から取り除
  き、かつて関東の地で名を馳せた北
  条氏の威光を借りることで民衆や土豪
  たちから親近感を得ようと狙ったもの
  と考えられる。。

■氏綱は、関東の地における支配力の
  浸透を目指し、関東の地で有名な鎌
  倉の鶴岡八幡宮造営に着手し、信仰
  の厚い者たちの支持獲得を狙った。

  また、京都東寺の弘法大師七百年忌
  にも奉加して、後北条氏の権勢をアピ
  ールした。

  1532年には、前関白・近衛尚道の娘
  を氏綱の後妻に迎えるなどして、一介
  の浪人から伊豆・相模二ヶ国を奪取し
  た成り上がり者というイメージを払拭
  させる努力を惜しまなかった。

  権勢や信仰を集めるものにあやかる
  ような方法を徹底した氏綱の政策は
  功を奏して、徐々に後北条氏の関東
  支配の権力は浸透していった。

■1537年、今川家の壮絶な家督争いに
  勝利した今川義元が新たに今川家当
  主になった。

  義元は、甲斐守護で勢力を盛り返して
  きていた武田信虎と同盟を結び、駿河
  東郡の帰属をめぐって後北条氏を名
  乗る氏綱と対立。
  18年の永きに渡る抗争が今川氏と北
  条氏との間に起こった。

■駿河の今川氏や関東の扇谷上杉氏ら
  と対立しながら、1538年に氏綱は2万
  の大軍を率いて房総半島に侵攻。
  房総半島の雄・里見氏と衝突した。

  第一次国府台の戦いで北条氏は里見
  氏を撃破し、下総国一帯に北条氏の
  支配力を及ぼした。

  1539年には、かねてから古河公方と
  約束していた政略結婚を成立させ、
  氏綱の娘・芳春院は古河公方・足利
  晴氏に嫁いだ。

■関東一円に勢力を広げるために氏綱
  は、関東管領・扇谷上杉家と世代を
  超える大抗争の幕を開け、一方で北
  条家の宿敵となる房総半島の雄・里
  見氏との抗争を開始させたのである。

  後北条氏が成り上がったゆかりの地
  である駿河東郡をめぐっても今川氏
  と対立するなど四方八方で抗争を展
  開した氏綱であったが、関東の地へ
  の支配力を強めるために年貢率の引
  き下げや信仰厚い神宮への熱心な寄
  進などを実施した。

  古河公方との縁戚同盟や前関白との
  縁戚関係を結ぶなど成り上がり者とし
  ての汚名払拭に尽力し、並々ならぬ
  努力と工夫を凝らした氏綱であった。

  この休む暇のない抗争と巧みな外交
  をこなした氏綱は、1541年、跡目を継
  ぐ氏康に置文を与え、病没した。
  享年56歳。

  氏綱の関東や駿河における抗争の火
  種は後北条家三代目当主となった氏
  康にその対応を引き継がせる結果と
  なった。
  その後、氏康は、この世代を超えた火
  種を沈静化させることに見事、成功す
  るのであった。