堀尾 吉晴
ほりお よしはる
1544-1611
享年68歳。

名称:仁王丸、小太郎、吉定、吉直、
茂助、可晴、帯刀先生、従四位下

居城:遠江浜松城→出雲松江城

■堀尾泰晴(吉久)の子。
織田信長に仕え、立身出世の目覚しい
木下秀吉と入魂となり、以後は秀吉
麾下の将として活躍した。

■織田信長による浅井氏討滅後、近江
攻め一番の功労として秀吉が近江長
浜12万石を拝領すると吉晴は秀吉よ
り、しばしば軍功を挙げた功績で100石
を近江長浜に与えられた。

■1578年、吉晴は本願寺顕如を天王寺で
破り、その功により、播磨国姫路に
1500石を領した。

その後も秀吉軍の一翼を担い、軍功を
挙げ、丹波国黒江に3500石→丹波国
高浜1万7000石と加増。

1585年には、丹波坂本で2万石と
なり、1586年には、近江国佐和山で4
万石と出世していった。

■吉晴は九州征伐、小田原征伐に従軍。
小田原の役では山中城攻略に参加
した。
小田原の役後、吉晴は豊臣姓を許さ
れ、豊臣政権の中でも重きを成した。

1591年、遠江浜松城12万石に移封
となり、中堅大名となり、福島正則や
浅野長政ら豊臣家重臣と肩を並べた。

■1598年、太閤秀吉が没すると吉晴は、
豊臣家の長年の功労者として重鎮の
席に就き、生駒親正・中村一氏らととも
に豊臣家の中老職を務めた。

同年8月、豊臣家五大老の筆頭・徳川
家康と豊臣家五奉行の石田三成とが
対立すると吉晴はその仲裁に入り、和
議を調えた。

吉晴がこの仲裁に活躍した際、徳川
家康は吉晴の抱き込みに力を入れ、次
の天下人が徳川家だと予見した吉晴
は、これ以後、急速に家康に接近し
た。

■1599年四月、吉晴は豊臣家の重職を
辞して、隠居し、家督を二男の忠氏に
譲った。
吉晴自身は、越前国府中に隠居料の
5万石を与えられた。

■1600年7月、関ヶ原決戦に先立って、
東軍に味方していた吉晴は、佐和山
北国の動向を探ろうと勇んで遠江国
浜松を発った。
途中、三河国池鯉鮒(ちふり)で三河
国刈屋城主・水野忠重と元美濃国加
賀井城主・加賀井重望(秀望)と一緒と
なり、三人は泊りがけに酒宴を開
いた。
この席上、酔った勢いで双方で口論と
なり、吉晴は重望の乱行にあい、負傷
してしまう。

■関ヶ原合戦では不遇の負傷のため、何
ら活躍の場がなかった吉晴であったが
、嫡子・忠氏が東軍に属して戦った。

この時、忠氏は徳川秀忠の部隊にいた
が、瀬田川の前哨戦で軍功を挙げて
いる。
この功績のおかげで、堀尾家は遠江
国浜松12万石から出雲・隠岐に24万
石の加増となった。

■堀尾家の栄華を見届けた吉晴ではあっ
たが、跡取りの忠氏が夭逝してしまっ
たため、忠氏の嫡子・忠晴の後見役と
なり、再び国政を執った。

1611年、堀尾家の磐石を見届けて、吉
晴は没した。
享年68歳。