あしかが よしてる

1536-1565 享年30歳。

■通称:菊童丸、義藤、従五位下、正五位下左馬頭、従四位下・征夷大将軍、参議・左近衛中将、従三位、従一位左大臣

室町幕府13代将軍。足利義晴の嫡男として、東山南禅寺にて生まれる。

義輝は誕生直後に外祖父の近衛尚通の猶子となっている。将軍と御台所の間に生まれた男子は、久しぶりのことで、足利義尚以来であった。また、摂関家出身の女性を母に持つ将軍家の男子は、義輝が初めてであった。

幼名は菊童丸。元服して、義藤と名乗る。

義輝が生まれた頃は、父・義晴が管領の細川晴元との権力争いに明け暮れる毎日で、義晴は合戦で敗れる度に、近江国坂本へと逃れており、幼い義輝もこれに度々、従っっている。

義晴・義輝父子は、近江坂本・朽木と京都の間を行ったり来たりを繰り返す生活を送った。

これまで将軍家の嫡男は、政所頭人の伊勢氏の邸宅で育てられるのが慣例であったが、幼い義輝は両親の手元で育てられている。

1546年天文15年12月、義輝はわずか11歳という若さで父から幕府将軍職を譲渡された。朝廷もまだ年若い義輝の将軍職就任を認めた。

義晴は我が子の後見をする形で、政治統制を動きやすくしようと考えていた。近江坂本の日吉神社にて、六角定頼を烏帽子親として、義輝は元服を果たし、義藤と名乗った。

同年末に、義藤は、京都へ戻り、翌年正月に内裏に参内して、後奈良天皇に謁見した。

1548年天文17年、義晴は細川晴元と和睦して、京都へと戻った。

この時、晴元は、義藤の将軍就任を承諾した。

宿敵・細川晴元と和睦を成した足利将軍家であったが、晴元は、細川家の有力重臣・三好長慶の裏切りに遭い、1549年6月、江口の戦いにて、晴元は長慶の軍に敗れ、敗走した。義晴・義藤もこれに連動して、京都から近江坂本へと退避している。

1550年天文19年5月、父・義晴が穴太にて没した。義藤は父が再建を進めていた中尾城へ入ると、三好長慶の軍勢と対峙した(中尾城の戦い)。

戦局は打開せず、11月に中尾城を義藤は自ら焼き、堅田へ退いた。

1551年天文20年3月、義藤は京都にて三好長慶を暗殺しようと目論んだが失敗に終わる。同年5月、河内守護代・遊佐長教が暗殺されたが、その首謀者は、義藤の仕業とされ、畿内は不穏な情勢となった。

同年7月、三好政勝、香西元成を主力とした幕府軍が、京都奪還を図り、京都へ侵攻。三好方の松永久秀、その弟・長頼がこれを迎撃し、三好方の勝利に終わっている。相国寺の戦い。

1552年天文21年1月、義藤は、三好長慶と和睦し、ようやく京へ戻ることができた。この和睦劇は、同月に六角定頼が急逝した影響と言われている。

義藤は、中国地方に盤踞した、足利家ゆかりの諸侯・山名氏、赤松氏の所領を奪取した尼子晴久に8カ国守護を任じた。伊勢貞孝ら幕臣の反対を押し切っての決定に、幕府では動揺が生じた。

1553年天文22年1月、義藤は、幕臣が再び反三好派と親三好派に分かれて対立すると、義藤は、長慶との和睦を破棄し、霊山城に篭り、細川晴元と連携して、三好長慶との戦端を開いた。

同年7月、三好長慶は、芥川山城へ抑えの兵を入れると、残りの手勢を率いて、京へと入った。8月には幕府軍が籠もる霊山城が陥落。

義藤は、近江朽木谷へと逃れ、以後、向こう5年間をこの地で過ごす。

1554年天文23年2月、義藤は朽木谷にて、名を義輝に改めている。

同時に年号が永禄に改元された。

1558年5月、義輝は六角義賢の支援を得て、細川晴元とともに近江坂本へと移り、京への上洛の機会を伺う。

北白川の戦いにて、幕府軍は、三好長逸らの軍勢と戦う。当初は六角義賢の支援を受けた幕府軍が優勢であったが、長慶の実弟・三好実休の奮戦により、戦況が悪化。さらに六角義賢の支援も打ち切られてしまい戦局は膠着した。

11月、義輝は六角義賢の仲介により、ようやく三好長慶との和議が成立した。

こうして義輝は実に5年ぶりに、京都へ帰還を果たした。

12月には、近衛稙家の娘を正室に迎えている。

長慶は、義輝と馬が合わず、自分を暗殺しようとした義輝を警戒して、近寄らず。

1559年永禄2年12月、嫡男の義興に足利将軍家のことは任せて、三好家の本拠地となっていた摂津国芥川山城を義興に譲り、自らは河内飯盛山城へと移った。

剣豪としても名高く、古今東西の名だたる名刀を蒐集した。

失墜した幕府権力の回復を目指し、全国の有力大名に書状を発し、影響力を与えようと努めた。

義輝は、幕府権力と将軍賢威の復活を目指し、幕府再建のため、辣腕を振るった。

諸国で日々起こる戦乱に対して、調停・仲介和睦に尽力している。

伊達稙宗と伊達晴宗の和睦 1548年天文17年

里見義堯と北条氏康 1550年天文19年

武田晴信と長尾景虎 1558年永禄元年

島津貴久と大友義鎮 1560年永禄3年

毛利元就と尼子晴久 1560年永禄3年

松平元康と今川氏真 1561年永禄4年

上杉輝虎と北条氏政と武田晴信 1564年永禄7年

こうした大名同士の合戦争乱の調停に義輝は活躍している。

また、諸大名へ将軍の威光を身近なものにするための懐柔策として、足利桐紋を三好長慶、義興父子、さらに松永久秀に与えている。

大友義鎮には筑前・豊前守護、毛利隆元には安芸守護を任じて、彼らの権威付けを支援している。

また、自身の名前を偏諱として与え、臣従関係を結ぶことにも勤めている。

義藤と名乗っていたころの「藤」の字を偏諱として与え、細川藤孝(幽斎)、筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政。

義輝と名乗ってからも偏諱を与え「輝」の字を毛利輝元、伊達輝宗、上杉輝虎(謙信)などに与えている。さらに足利将軍家の通字である「義」を朝倉義景、島津義久、島津義弘、武田義信などに与えている。

畿内を制圧した三好長慶とその一門、松永久秀に翻弄されながらも、幕府権力の回復を目指した。

だが、松永久秀、三好三人衆、三好義継に、襲撃され、奮戦虚しく自害した。

足利将軍家<拡大図>