いまがわ よしもと
1519-1560 享年42歳。
芳菊丸、梅岳承芳、治部大輔
”東海道一の弓取り”と評された戦国大名。
名門今川家第11代当主。
今川氏親の五男として生まれる。4歳で仏門に入り、
駿河国富士郷瀬古にある善得寺の太原雪斎に預けられた。
その後、雪斎と共に建仁寺へ入り、学問を深めた。
さらに雪斎と共に妙心寺へ趣き、大林宗休から学んだ。
1536年、兄・氏輝から駿河へ帰国命令を受けた義元は、
京都から駿河へと帰参する。
その直後に氏輝が急死。さらに継承権を有する兄・
彦五郎も同日に急死したため、義元へ継承権が
回ってくる。母・寿桂尼の支援もあり、腹心の
太原雪斎を重用して、跡目争いを制して、名門
今川家の当主となる。
将軍・足利義晴から偏諱を賜り、義元と称した。
一方、今川継承権を有する恵探が今川館へ押し寄せ、
今川家家督を簒奪しようとした。太原雪斎、岡部親綱ら
義元側の将兵が奮戦したが、苦戦が続いた。
しかし、後北条氏の支援を取り付けた義元側に風向きが
良くなり、ついには花倉城に拠る恵探を攻め込んで、
彼を自害させる。
その後、国内統治に専心し、1537年天文6年2月、武田信虎の
娘・定恵院を正室に迎えた義元は、武田氏と甲駿同盟を締結する。
しかし、この同盟は後北条氏の北条氏綱を怒らせた。
北条軍は駿河国富士郡吉原に侵攻し、第一次河東一乱を引き起こす。
北条軍は今川家の家臣団の切り崩しに成功し、河東を長期に渡って
占拠するに至る。
この状況にあって、今度は尾張の織田信秀が1540年天文9年、
三河へと侵攻を開始する。義元は三河へ援軍を派兵し、
三河の諸侯軍と連合して、織田軍と対峙した。
1542年天文11年第一次小豆坂の戦いが起こり、織田軍の
猛攻の前に敗北した。
1548年天文17年、義元が三河へ本腰で侵攻すると織田信秀は、
反動で三河へ出張ってくる。義元の名軍師として鳴らした
太原雪斎は、譜代重臣の朝比奈泰能らとともに織田軍と決戦に
望み、大勝した。第二次小豆坂の戦いに勝利して、前回の
手痛い敗北の雪辱を果たした。
1549年三河の有力豪族・松平広忠が家臣の謀反に遭い、
落命すると、まだ跡取りが幼子の竹千代であったことから、
今川方が三河経営を肩代わりすることとなる。
幼子の竹千代は、駿河の義元の元へ送られ、人質兼養育
に当たることとなった。
1553年天文22年には、父・氏親が定めた今川仮名目録に追加を
なして、今川家の規律を正した。
三国同盟によって、後顧の憂いを絶った義元は、いよいよ
上洛戦へと踏み出した。
1560年、2万5千の大軍を率いて、京都へと上洛しようと
目論むも、織田信長率いる手勢2千が義元の首目指して、
突進してきた。義元は奮戦虚しく、討ち取られてしまった。